伝説のクリエイターたちの軌跡。大衆の心を動かした「創り人」の仕事に迫る、小林亜星編の第2回。一度は音楽から距離を置いた小林だが、高校で才気あふれる友人たちと出会い、再び音楽の世界へ。
■ INDEX
第1回 2019.10.25公開
和製ジャズに心を奪われ、激怒の父にギターを奪われた少年時代
第2回 2019.11.01公開
才気ある友との出会い、バンド再結成、そして放蕩の味を知る
第3回 2019.11.08公開
狼少年ケン、魔法使いサリー 背中押されアニメ音楽へ
第4回 2019.11.15公開
アニメ、CM、歌謡曲 テレビ時代の申し子に未練なし
慶應義塾普通部に入学、林光と出会う
中学2年生のとき、進駐軍相手のクラブに出演していたことが露見、小林亜星は通っていた慶應義塾普通部を停学となる。それを知った父親はギターをたたき割り、まきにして燃やしてしまった。その後しばらく、小林は音楽から離れることになる(関連記事【第1回】「和製ジャズに心を奪われ、激怒した父にギターを奪われた少年時代」)。
慶應義塾普通部には親が医師など、裕福な家庭の子弟が集まっていたこともあったろう、ピアノを弾ける同級生が何人もいた。
「当時、慶應(義塾)高校の普通部が(火事で)焼けたので、幼稚舎を間借りしていたんです。その体育館にピアノが置いてあって、慶應の面白いところだけれど、誰が弾いてもよかった。みんなそこで得意になってピアノを弾くんです」
終戦後、米国からは音楽とともに映画が流れ込んでいた。小林たちはそうした映画を貪るように見ていた。その中に「アメリカ交響楽」というアービン・ラバー監督の作品があった。これはジャズの作曲家、ジョージ・ガーシュウィンの伝記映画である。
ある日、その映画を見た同級生が自慢げに映画のテーマ曲をピアノで弾き始めた。
「あの頃は、みんな同じ映画を見ていたんです。映画に飢えていたから。それで得意になって(サビの印象的な部分を)チャンチャーンってやった。でもそれくらいしか分からないよね」
その様子を見ていた別の同級生がにやりと笑うと、壇上に登った。鍵盤に向かい、1曲通して弾いてみせたのだ。後に東京藝術大学音楽学部作曲科へ進み、数々の賞を受けた作曲家、林光である。
「これは参ったなと思いましたよ」と小林は当時を思い出して、大げさにため息をついた。
「林は中学から同じクラス。医者の息子で、子供のときから音楽の英才教育を受けていた」
ピアノを華麗に弾きこなす林がただまぶしかった。小林は鍵盤に触ったこともなかったのだ。
コーラス部入部でクラシックとピアノに目覚める
昭和21(1946)年に学制改革が実施されたため、昭和23(1948)年入学の小林たちは慶應義塾高等学校の1期生に当たる。
同校に赴任した若い音楽教師によって小林は音楽に引き戻されることになった。
「国立音大(国立音楽大学)の作曲科を出ていて、音大卒として慶應高校で初めて先生になった人でした。その先生がコーラス部を作ったんですね。先生から僕は『君はコーラス部に入らないと駄目だ』って言われたんです。何でかと聞くとね、高校1年生だと声変わりしている人と、していない人がいる。僕はすでに声変わりをしていて低音が出る。だから入んなきゃ駄目だって」
そう言うと小林は「うーーっ」と低い声を漏らした。
「そのときはコーラスは嫌だなって。でも入れられた。僕はハワイアンをやっていたけど、コード(和音)しか弾かないから譜面が読めないの。無理やり入れられて譜面が読めるようになった。今でもN響(NHK交響楽団)が年末に第九(ベートーベン、交響曲第9番『合唱付き』)をやるでしょ。あれには国立音大の女の子とかが集められるの。男が少ないから、国立出身の先生の関係で慶應高校も動員されていた。そんなことをしているうちにクラシックのほうにも興味が出てきた」
クラシックに興味を持った小林は、ピアノを練習するようになった。しかし、当時、ピアノは高価だった。そこで紙に鍵盤を描き、譜面を見ながら運指を練習した。音が出ないため、正しく鍵盤を押さえているかどうかは分からない。
「近所に1時間50円でピアノを貸すところがあったんです。貸しピアノって当時はたまに見かけましたよ。ピアノのあるような名家が戦争中に没落しちゃったんだろうね、貸しピアノで稼いでいた。ベートーベンの『(ピアノソナタ第14番)月光』とか、好きな曲の譜面を買ってきて、紙の鍵盤で練習してから、1時間だけ貸しピアノに行く。50円って、相当高く感じましたよ。それで好きな曲は弾けるようになった」
「しかし、それだけです。譜面を初見で弾くことはできなかったですよ」。小林は謙遜気味に付け加えた。
林光、富田勲と過ごした高校時代
学校の教室では林、そして高校から慶應に入ってきた富田という男と音楽の話にふけった。
「富田も小さいころから作曲を習っていた。3人とも好きな音楽は違うんだけれど、音楽談議をしてましたね。オペラを見に行ってその感想を話したり、富田が近所の子供たちを集めて童謡を教えているのをのぞきに行ったり」
富田こと富田勲は、後にシンセサイザー奏者、作曲家として知られることになる。
高校3年生のとき、小林はコーラス部顧問の教師から「合唱用の曲を作ってみろ」と言われた。
「(男子校の)慶應高校は女子校と混声合唱やれるからってコーラス部に入るやつが多いんです。女子校の生徒と知り合いになれるから。その曲を僕が作った。『ホームソング』という曲で、それが結構評判が良かった。それで味を占めちゃって、作曲って面白いなと思った」
この時点では、それ以上音楽に傾くことはなかった。高校3年生の学業成績が、大学の学部選択の条件となっていたからだ。
「それまではずっと落第点だったのに、3年生のときだけ勉強した。平均点90点以上じゃないと医学部に行けないからね」
そしてクラスの中で2人だけ医学部に進学することになった。
医学部入学、ビブラフォンを手に再び音楽の世界へ
父親の希望した医学部に入り、小林は再び楽器を手にした。今度はビブラフォン――金属板の音板を使用する鍵盤打楽器だった。
「戦時中、(ジャズミュージシャンの)平岡精二さんのマリンバ(木琴の一種)に憧れていた。平岡さんは1つ年上なんです。彼は小学6年生くらいのときからNHKラジオの『前線へ送る夕べ』のテーマ曲を演奏していた。当時は録音がないから毎週、生演奏していたんです。それが頭にあってマリンバを練習したことがあった。マリンバと近いからビブラフォンを買ったんです。買うっていったって、払うのが大変だった。仕事でもらう金は支払いで全部飛んでいくみたいなもんだったけどね」
小林はギター、ピアノの友人と共にジャズバンドを結成した。前年の昭和25(1950)年6月、朝鮮戦争が始まっていた。
「(米軍の)兵隊は朝鮮で戦争して、ときどき日本に帰ってきて英気を養う。だから横浜にそういうクラブがいっぱいできたんです。でもバンドが足りない。アメリカ人のバンドマンも来てましたけど、足りない。この時期に日本人のバンドがいっぱいできてるんです。だから俺たちみたいな下手くそな学生バンドでも仕事があった」
渡辺晋とシックス・ジョーズのこと
小林が慶應義塾大学に入った年、昭和26(1951)年に早稲田大学に在学中だった渡辺晋が「渡辺晋とシックス・ジョーズ」を結成している。シックス・ジョーズは、“スリーピー”という愛称で知られたテナーサックス奏者・松本英彦、あるいは後に「上を向いて歩こう」の作曲で知られるピアノの中村八大など、腕利きのミュージシャンをそろえていた。
当時のミュージシャンを取り巻く環境について、ノンフィクション作家の野地秩嘉は「昭和のスター王国を築いた男 渡辺晋物語」(2010年、マガジンハウス)でこう書いている。
〈学生の身ながらミュージシャンとして生活していた晋は一般企業へ就職することを止め、米軍のクラブを中心に演奏するようになる。クラブでステージを務めればひと月で1万円以上の金を手にすることができた。公務員の初任給が5000円に満たない時代、サラリーマンになるよりも、ジャズマンでいた方がキャッシュを手にすることができたのである。また、米軍クラブへ行けば真っ白な食パンと分厚いハムで作ったサンドイッチを食べることができたし、アメリカの煙草やウイスキーにも事欠かなかった〉
「シックス・ジョーズは最初からうまかったな」
と小林はつぶやくように言った。
渡辺晋とシックス・ジョーズは日本を代表するジャズバンドとなった。そして昭和30(1955)年、ミュージシャンの待遇改善のために、渡辺は日本で初めての近代芸能事務所――渡辺プロダクションを立ち上げている。
横浜のクラブで音楽家としての経験を積む
小林に話を戻す。
小林のバンドは横浜市のウィメンズ・アーミー・クラブ、通称「WAC(ワック)」で演奏することが多かった。
「いつも横浜駅で電車を降りて、ラーメンを食ってからバンドの人たち専用のバスに乗って行くんです。看護婦さんとか将校の奥さんがいらっしゃるところ。そこで気に入れられて専属みたいになった。あれはどこにあったんだろう……広い場所でしたね。近くにゴルフコースがあったような気もする。その他、横浜のホテルニューグランドでも演奏したこともありますね」
WACでは週3日ほど演奏していたという。この経験が音楽家としての足腰を鍛えることになった。
「アメリカのスタンダードナンバー(を集めた)『1001』って本があるんですよ。そこには昔からの曲の楽譜が全部入っている。著作権上考えられない。恐らく進駐軍(関係のバンド)専用に作ったものだと思う。それをみんな進駐軍から手に入れて持っていた。将校の奥さんたちから、昔の曲、スタンダードナンバー、『これやってください』って言われると、それを演奏しなければならない。コードから何からそうした曲を全て覚えることが勉強になった」
手にした金はまずはビブラフォンの返済に充て、その他は酒、女に使った。
放蕩の日々を経て製紙会社に就職
小林の著書に「軒行灯の女たち」(1985年、光文社)という遊郭を舞台にした短編小説集がある。小説と銘打っているが、「ほぼ実体験に基づくものですよね」と問うと小林は「お恥ずかしい」と頭をかいた。
小説の舞台は少し後、「赤線廃止(1958年)」の前あたりになっているが、放蕩(ほうとう)を覚えたのはこのころだろう。夜のWAC出演に備えて昼間は寝ているため、大学からは足が遠のいた。
「医学部は3年生になると信濃町の(慶應)病院のほうに行くんです。おやじが『そろそろ信濃町だな』って白衣を買ってきた」
実は経済学部に転部したのだと告白すると、父親はがっくりと肩を落とした。
「怒られなかった。がっかりして怒る気力も無くなっちゃった。悪いことをした」
小林は昭和30(1955)年3月、慶應義塾大学経済学部を卒業している。同時にバンド活動もやめた。朝鮮戦争が終わり、米軍の兵士が引き揚げてしまい、バンドの需要がなくなったのだ。
「当時は三白景気ってね、硫安(硫酸アンモニウム)っていう肥料、砂糖、そして紙の3つの白いものが足りなかった。それで景気が良かったんです。(就職活動では)NHKとサントリーを受けたけど落ちて、日本製紙に入った。どうして日本製紙だったかというと、銀座にあったから。当時、銀座で遊んでいたから、銀座じゃなきゃ嫌だった」
もっとも、会社員になったからといって、一度身に付いた放蕩の癖が治ることはなかった。
(つづく)
作詞・作曲・編曲家
(写真/酒井康治)