伝説のクリエイターたちの軌跡。個が尊重され、大ヒット不在の現代。いま一度、大衆の心を動かした「創り人」の仕事に迫る。シリーズ初回は昭和のCM音楽の巨人・小林亜星。進駐軍のラジオ放送に衝撃を受け、中学生でバンドを結成。ところが酒場に出演していたことが学校にバレ、停学に……。

昭和世代なら小林亜星を知らない人はいないはず・・・・・・たとえ知らなくても日本人なら彼の曲を耳にしたことはあるはずだ
昭和世代なら小林亜星を知らない人はいないはず・・・・・・たとえ知らなくても日本人なら彼の曲を耳にしたことはあるはずだ

■ INDEX
第1回 2019.10.25公開
和製ジャズに心を奪われ、激怒の父にギターを奪われた少年時代
第2回 2019.11.01公開
才気ある友との出会い、バンド再結成、そして放蕩の味を知る
第3回 2019.11.08公開
狼少年ケン、魔法使いサリー 背中押されアニメ音楽へ
第4回 2019.11.15公開
アニメ、CM、歌謡曲 テレビ時代の申し子に未練なし

カフェーで流れる音楽に心を奪われる

 小林亜星が初めて音楽に惹き付けられたのは5歳のときだ。彼の記憶が正しければ、昭和12(1937)年――二・二六事件の翌年、戦争の足音が聞こえてきた頃である。

 小林の父方の叔父は、東京・新宿にある“カフェー”の経営者の娘と結婚していた。カフェーとはコーヒーの他、酒を出す、ホステスのいる店のことだ。「彼女がものすごい美人でね。よくそこにおやじと一緒に遊びに行っていたんですよ」。

 そこで流れていたのが、二村定一(昭和初期の代表的な歌手・ボードビリアン)の歌う「アラビアの唄」だった。この歌は、米映画の主題歌に日本語の歌詞を付けたものだ。

 「日本で初めての和製ジャズ。当時、ものすごくはやっていて、そればっかりが店でかかっていたんです」

 真っ白いエプロンを着けた奇麗な女性が、オレンジエードの入ったシャンパングラスを持って来てくれた。ストローで飲むと、炭酸が口の中で広がった。このオレンジ味の甘い炭酸水と店のネオン、若く美しいホステス、そこに歌が加わり、小林の心をぐっと捉えたのだ。

最初の楽器は集団疎開のときのハーモニカ

 小林は昭和7(1932)年に東京都渋谷区で生まれた。父親は逓信省(現日本郵政)勤務、母親は築地小劇場などの舞台に上がっていた元女優だった。弟、妹が1人ずついたが、2歳下の弟は3歳で亡くなっている。

 9歳のとき、真珠湾攻撃により日本は戦争に入った。杉並区立大宮小学校の6年生の夏に、長野県小諸市の成就寺に集団疎開している。この頃は、ハーモニカで軍歌や小学唱歌を吹き鳴らしていたという。

 ハーモニカが最初の楽器だったんですね、と小林に言うと「好きでやってただけ。ハーモニカなんか楽器に入らないですから」と鼻で笑った。

 小学校を卒業し、中学校――慶應義塾普通部進学の準備のため、小諸から杉並に戻った。このとき、昭和20(1945)年3月の東京大空襲に遭っている。

 「疎開していたときは(東京に)空襲なんてなかった。中学に入るってんで帰ってきたら大空襲。疎開なんてなんにもならなかった」

疎開先で聴いた玉音放送

 空襲警報が鳴り、家族全員で庭に掘った防空壕(ごう)に入ったことを覚えている。

 「おやじたちはよく掘ったなと思うんですけれど、3畳くらいの広さだったかな。防空壕の中にいろんなものを入れて、家みたいになってた」

 幸い、小林家、そして近隣に空襲の被害はなかった。自分たちの鼻先まで米軍が迫っていることを感じたのは、中学校に入った直後のことだった。

 「空襲があるっていうので、慶應普通部ではみんなで一緒に帰んなきゃいけなかった。それで青山の絵画館の近く、銀杏(いちょう)並木があるでしょ。あそこを歩いているときに低空で敵機が近づいてきた。操縦士の顔はなんか笑っているように見えたね」

 その次の瞬間、その戦闘機は機銃掃射を始めた。小林たちは道端で伏せて、戦闘機が去るのを待った。立ち上がって歩きだすと、同じ戦闘機が戻ってくるのが見えた。再び身を隠すと、機関銃の音がした。

 「なんかこっちをからかっているような雰囲気でしたね」

 その後、母親の実家のある長野県佐久市に疎開している。

 「おやじは官吏ですから疎開できないんで、妹とおふくろと3人。縁故疎開です」

 昭和20(1945)年8月15日、疎開先の野沢中学校(現・長野県野沢北高等学校)の校庭で天皇陛下の言葉をラジオを聴いた。

 「(電波状況が悪くて)ガーガーいって何を言っているんだからよく分からない。みんなは、もっと(戦争を)頑張れっていうことだと思っていたんです。でもそのとき、僕には分かったんです。『これは戦争に負けたな』って。教室に帰ってそう言ったら、みんなが非国民だって怒りだしてね。しばらくして先生が入って来て『日本は負けたんだ』って。みんな、へちょんとなっちゃってね」

進駐軍のラジオ放送に衝撃を受ける

 戦争が終わるとすぐに小林は東京に戻った。

 「物資はないし生活は大変でしたね。おやじが庭で、ジャガイモ、キュウリ、ナスとかをいろいろ作っていた。広い庭じゃなかったけど、ニワトリも飼っていた。そういう家が多かったですね。みんなよくやっていたなぁと思いますよ」

 昭和20(1945)年9月、NHK放送局を接収した進駐軍は「WVTR」というコールサインでラジオ放送を始めている。ラジオから流れてくるWVTRの放送を耳にした小林は衝撃を受けた。

 「(戦争前の)子供時代に知っていたジャズとは全く違っていた。もちろん、そのジャズっていうのは日本でアレンジして日本で演奏しているから、幼稚なものだったのかもしれない。それでも少しは向こう(米国)のジャズも聴いていた。ところが、レス・ブラウン楽団の『センチメンタル・ジャーニー』を聴いたら、戦争中の何年かの間なのに、進歩の仕方がとんでもない。こんな国と戦争していたなんてばかみたいだって。誰だってそう思ったはずですよ」

 ビッグバンドの洗練された音とその厚みに、国力の違いをまざまざと感じたのだ。

 「自分もこんな音楽をやってみたい」。そう考えた小林は母方の伯父にねだって、ガットギターを手に入れた。

 「渋谷の東横デパート(東急百貨店東横店)。食い物が手に入らないので、レコードとかを売っていた。そこの楽器売り場で買ってもらった。たぶん高かったと思いますよ。子供には手が出なかった。でもなんか買ってもらったんですね」

筆者と対談中の小林。実は、活字にできない言葉もちらほら飛び出した
筆者と対談中の小林。実は、活字にできない言葉もちらほら飛び出した

原田実と出会い、進駐軍の前で演奏

 WVTRの放送に感化されたのは小林だけではなかった。同級生の原田実(昭和を代表するスチールギター奏者)は木材を加工してスチールギターを自作していた。

 「あいつ、すごいんですよ。電話を壊してその部品を音の出るところに使っていた。その頃は神保町が電気街だったんです。そこに軍の放出品みたいなのが出ていた。それでアンプまで作っちゃった」

 スチールギターは、横置きにした金属のバーを、ギターのボトルネックのように押さえて音を出す。ハワイアンでよく使用される弦楽器である。

 ピアノの心得があった原田はすぐにスチールギターを弾きこなした。小林も音楽の才があったのだろう、なんとなく触っているうちにギターを習得していた。そして東京・渋谷の鍋島松濤公園に面した原田の家で2人は練習を始めている。

 「原田の家は公園が見えるいい所にあるんですよ。公園に進駐軍がね、日本人の売春婦みたいなのを連れて、天気のいい日に座って“悪いこと”をしているんです。それを原田の家から望遠鏡でのぞいていた」

 「ばかな不良少年でしたよ」と、小林は声を上げて笑った。

 そこにウクレレ、ベースを演奏する同級生がそれぞれ加わり、バンドが結成された。演奏したのは、コード進行の比較的平易なハワイアン音楽である。しばらくして東京・新橋のガード下にできた「ニッカポッカ」という進駐軍向けのクラブで演奏するようになった。

 「昔の話だから忘れちゃったけど、英語の堪能な人が、中学生でハワイアンをやるのが面白いって、進駐軍(の関係者たち)の前でやれって。戦争に勝って日本に来てみたら、自分たちが好きな音楽を日本の子供たちが演奏しているって感じだったんだろうね。受けちゃった」

中学校を停学になり、ギターは風呂のたきつけに

 ニッカポッカには週に3日ほど出演するようになった。やがて人気が出たのだろう、バンドの写真がガード下に張り出された。

 「スチールギターとギター2本、ベース、ウクレレ(という編成)だったかな。ギャラはもちろんもらいました。もらわなきゃ行かないですね。原田はそれで金をためて、もうちょっといいスチールギターを買おうとかやってました」

 すると中学校の教師がガード下の写真で小林たちに気がつき、1カ月の停学処分。激怒したのは父親だった。

 「勉強をしないって怒られちゃった。おやじからはずっと医者になれって言われていた。それでギターを(壊して)まきとして風呂でたきつけにした。焼かれちゃったんだな。よく覚えていないけど、当時は泣いたでしょうね」

 父親は新潟の開業医の次男だった。長男は夭折(ようせつ)、残った息子たちは誰も医師にならなかった。その罪滅ぼしでもあったろう、小林を慶應義塾大学医学部に入れるつもりだったのだ。

 ここで小林は一度、音楽から離れることになる。

頑固おやじのイメージがある小林だが、話しぶりは温厚そのもの
頑固おやじのイメージがある小林だが、話しぶりは温厚そのもの

バンド仲間の原田は音楽の道へ

 一方、バンドメンバーだった原田は、その後、「小坂一也とワゴンマスターズ」のメンバーとなり、1950年代には日本を代表するスチールギター奏者となる。

 小坂の著書「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」(1990年、河出書房新社)には、慶應義塾大学の学生となっていた20歳の原田が、ワゴンマスターズに加入したときの話が出てくる。

 〈初めて聴いたハラダさんのスチールギターには、三人とも感服してしまった。当時ウエスタンでいちばん流行していたのは「ジャンバラヤ」や「ユア・チーティン・ハート」などを自作自演したハンク・ウイリアムスの歌だったのだが、もしかするとハンクのレコーディングには、このハラダさんも参加していたのじゃないかと錯覚させるほど音がよく似ていたし、テクニックも完璧だったのだ〉

 原田と同時期にワゴンマスターズに入ったのが、当時のミュージシャンの流儀で名字をひっくり返して「リーホ」と呼ばれていたギタリストだった。その男、明治大学の堀威夫は後にホリプロダクション(現・ホリプロ)を設立することになる。

 日本の芸能界の黎明(れいめい)期である。

(つづく)

小林亜星(こばやし・あせい)
作詞・作曲・編曲家
昭和30(1955)年慶應義塾大学経済学部卒業。作曲を服部正氏に師事。昭和36(1961)年のCMソング、レナウン「ワンサカ娘」「イエ・イエ」をはじめ、サントリー「オールド」、日立「この木なんの木」など、次々とヒットCMを作曲。他にドラマ音楽、歌謡曲、ポップス、アニメ音楽を作曲。昭和47(1972)年、「ピンポンパン体操」が200万枚を超す大ヒット。レコード大賞童謡賞を受賞。昭和49(1974)年には巨体を買われて向田邦子作のTVドラマ「寺内貫太郎一家」に主演、大好評を得る。以来、作詞・作曲、タレントの両面で活躍する。古賀賞、中山晋平賞、ギャラクシー賞を受賞し、昭和51(1976)年には都はるみ「北の宿から」でレコード大賞を受賞する。平成14(2002)年4月から9月まで放送されたNHK連続テレビ小説「さくら」には、主人公さくら(高野志穂)の祖父役で出演した。2019年8月7日、日本コロムビアよりこれまで手掛けた楽曲をまとめた4枚組アルバム「小(こ)んなうた 亞(あ)んなうた~小林亜星楽曲全集~」をリリース。

(写真/酒井康治)

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