この連載をきっかけに誕生した書籍『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』が大好評です。今回はその中から、日本を変えた“あの歴史的大事件”を題材にしたプレスリリースを紹介します。
この連載をきっかけに出版した『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』が早くも増刷がかかり、思いの外、好評をいただいております。歴史的大事件を題材にして広報の仕事を理解してもらおうというむちゃな試みでしたが、多くの読者の方々に喜んでいただき、本当に感謝(ほっと)しております。そこで以前このコラムに掲載しました「広報の手にかかれば、松尾芭蕉だって旅行系の人気ユーチューバー」「1300年前のZ世代に刺さるワザ 遣唐使募集のリリース書いてみた」に続き、今回も本の中から皆さまに楽しんでいただけそうなエピソードを紹介いたします。
エンゲージメントゆるゆるの軍団のリーダー
この本で結構悩んだテーマの一つが「関ケ原の戦い」です。徳川家康、豊臣家、裏切り、後の幕藩体制への影響など切り口が多様で、登場する武将も多岐にわたるため、なかなか絞り込めなかったのです。しかしプレスリリースとして整理してみると、この戦は、豊臣秀吉の死後、調子に乗ってやりたい放題の家康に対し、豊臣家側のメンバーがブチ切れて戦いになったという流れかと思います。ただこの決戦、東軍の総大将が家康なのは納得できますが、西軍のリーダーが石田三成というのは申し訳ないのですが「あなた誰?」という印象です。そんな三成の置かれた立場を意識して読んでもらえると味わい深いかと思います。
石田三成は秀吉に取り入ることで出世した武将で、そうした経緯から豊臣家体制を守ろうといういわば「アンチ家康」グループのまとめ役でした。しかし、家康ほどの求心力も財力もなく、本来リーダーになるべき西軍の総大将の毛利輝元はちゃっかり大坂城の留守番という安全な役割に収まってしまいました。その他の家臣たちもいつ家康側に寝返っても不思議ではない、結束の弱い軍団であったように思います。
エンゲージメントゆるゆるの軍団のリーダーに、行き掛かり上なってしまった感がある三成。こんな状態で戦に突入することのリスクを想像できていたのなら、ステークホルダーにもそのリスクを知らせておく必要があります。「関ケ原の戦い」のプレスリリースでは、ステークホルダー対応としてこの戦がどのようなリスクをはらんでいるのかを末尾に入れました。
報道関係者各位
慶長5年(1600年)9月14日
豊臣家家臣
石田三成
明日開催の「関ケ原の戦い」について
石田三成をリーダーとする「(仮称)西日本武将有志による徳川家康氏の言動を正す軍」(以下、西軍)は、明日より関ケ原方面を戦場とし、徳川家康氏率いる東日本の軍勢(以下東軍)との合戦を開催することを発表します。
我らが主君である亡き豊臣秀吉公は、長かった戦乱をまとめ、ようやく天下統一の平和な世の中を実現されました。残念ながら早くに他界されたものの、その後の統治も豊臣家を中心に行うためのガイドライン「太閤様御置目」を残されています。
豊臣家家臣らはこのガイドラインに沿って政治を運営していくべきですが、残念ながら早くも違反者が現れ、特に徳川家康氏は禁止されていた政略結婚を行うなど、その行動には多くのコンプライアンス違反が目につきます。
また、家康氏は同じくコンプライアンス違反のあった上杉家を成敗するとして挙兵していますが、今回、豊臣家家臣有志による告発文「内府違いの条々」を見るや、その軍勢を西、すなわち大坂城に向けるという暴挙に出ています。
このような経緯から、西日本に拠点を構える多くの武将から家康氏の行いを良くしたいとの声が上がり西軍を結成、石田三成を現場まとめ役として、明日より関ケ原方面にて徳川氏率いる軍勢と雌雄を決することと致しました。
なお、豊臣家家臣の有力者である西軍総大将毛利輝元氏は、豊臣家拠点である大坂城守備を希望されたため、今回の戦いでは関ケ原には進軍いたしません。しかしながら当方軍勢には、小早川秀秋氏をはじめとする有力武将が控えるなど、必勝態勢で臨みます。
徳川家康氏の言動を正し、今後も豊臣家を中心とした安定した社会の実現に努めてまいります。
【将来の予測について】
本リリースに掲載している情報の一部には、現在入手可能な情報から得られた当家の計画・戦略、将来の見通し等があり、それらの内容は戦の情勢、有力武将の寝返り等、様々なリスクや不確定な要素により影響を受けることがあります。従って将来実際に公表される体制等は、これらの要因により見通し・予測と大きく異なる可能性があることにご留意ください。
コンプライアンス違反を告発した三成
石田三成は豊臣秀吉の良き家臣ではあったものの、家康と対抗して天下を奪い合うほどの器ではなかったように思います。武将として戦果を上げてきたわけでもなく、お茶のいれ方の気が利いていたという、戦国時代においてさほど重要ではないスキルはあったようですが……。秀吉に取り入って出世してきた、いわば官僚、政治家タイプの武将と言ってよいでしょう。
実際、三成は朝鮮出兵のときなども前線には行かず、秀吉の横でああでもないこうでもないと指示するだけでした。三成のこの態度は、後々「武断派」といわれる前線に立っていた武将たちからブチ切れられる下地となっていたりします。管理部門や経営企画部門が社長の脇で、ああだこうだと理屈をこねて営業部門から嫌われるという、企業ドラマではお決まりの悪役の設定に非常に似た構図ですね。
その三成が西軍を率いるうえで頼りにしたのは、やはり豊臣家を中心とした現体制を守るという大義です。家康は秀吉の遺言である「太閤様御置目」で禁じられていた政略結婚を行うなど、多くの豊臣家家臣の反感を買ったようです。
そして家康と反家康派の衝突を決定的にしたのが、三成らの発行した「内府違いの条々」という文章です。内府とは家康のことで、違いとはルール違反のことです。いわば家康への規律違反に対する警告文です。会社に例えると、関ケ原前夜の様子はいわばコンプライアンス違反をした重役(家康)を告発したものの、それによって告発された重役からのパワハラ(戦)が始まった、というわけです。
現在の企業ガバナンスが機能している会社では、こうした告発をした人を守る仕組みがあります。しかし、この時代にそんなものがあるはずもなく、三成は即座に家康から目をつけられてしまいます。それは家康軍の当初の目的地が関ケ原ではなく、三成の居城である佐和山城であったことからもうかがえます。ひょっとしたら、三成は義憤に駆られてちょっと飛び出してみたものの、引っ込みがつかなくなってしまった、お人よしの正義漢だったのかもしれません。
将来のリスクを説明するのは現代の常識
石田三成自身、前述の通り関ケ原以前から武断派の武将から嫌われていましたし、家康の狡猾(こうかつ)な性格は分かっていたと思います。恐らく、家康によるアンチ三成派の寝返り工作などのリスクが関ケ原の戦いにあることは、理解していたのではないでしょうか。
迫りつつある家康率いる東軍の足音を聞いて、三成は時代の流れが変わったことを感じながらも、豊臣家に対する忠誠心から自分の態度を変えないことにこだわっていたのかもしれません。三成は官僚、政治家タイプと書きましたが、こうしてみると忠義の武士の鑑(かがみ)のような人物に思えてきます。それとも、単に先のリスクが読めていなかっただけなのかも……。
戦国武将なら、戦で敗れるのを潔いと受け止めても構いません。これが現代の場合、会社にリスクが及ぶようなら、今回プレスリリースの末尾に入れた「将来の予測について」のような免責事項をあらかじめステークホルダーに知らせておくことも重要です。
そもそもプレスリリースは、イケイケで調子のいいことを書いておけばOKというものではありません。ステークホルダー、特に投資家に対してどのようなリスクがあるのかという点も併せて、説明しておく責任が会社にはあります。
また、現時点はリスクがなかったとしても、将来を100%正確に予測するのは不可能です。そこで投資家向け情報などでは、免責事項として将来の予測に関するリスクについても触れておくのが一般的です。
「将来の予測について」は、まさに投資家向け情報などでよく見られる表現です。無論、こんな文章は歴史上どこにも存在しないのですが、何となく武将の中から裏切り者が出ることが少し分かっていたようなニュアンスで書いてみました。この免責事項からも、リスクを感じながらも豊臣家のために戦おうという、石田三成の悲壮な決意を読み取ってもらえるでしょうか。

『もし幕末に広報がいたら 「大政奉還」のプレスリリース書いてみた』
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連載「風雲! 広報の日常と非日常」でおなじみの現役広報パーソン・鈴木正義氏による初の著書。広報・PR関係者を中心にSNSでも大きな話題に!「プレスリリース」を武器に誰もが知る日本の歴史的大事件を報道発表するとこうなった! 情報を適切に発信・拡散する広報テクニックが楽しく学べるのはもちろん、日本史の新しい側面にも光を当てた抱腹絶倒の42エピソード。監修者には歴史コメンテーターで東進ハイスクールのカリスマ日本史講師として知られる金谷俊一郎氏を迎え、単なるフィクションに終わらせない歴史本としても説得力のある内容で構成しました。
あの時代にこんなスゴ腕の広報がいたら、きっと日本の歴史は変わっていたに違いない……。
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