データ分析は客観的と言われるが本当だろうか。本来、分析や解釈は主観的であってもおかしなことではない。連載「データ分析のワナ」の1回目は、データ分析は分析者の視点の構築が重要であることを説明する。
「データ分析をしても、知っていた結果しか出てこなかった」
よく聞かれる表現だが、これは当たり前である。そもそも、何かの発見は「気づき」や「想像力」といった個人のひらめきを伴う思考力に頼るところがある。これらによらない計算機を使った分析は、単なる計算処理に他ならない。処理結果を誰もが考えそうな視点(時にそれは「ロジカルシンキング(論理的思考)」などの結果として得られるかもしれないが)で眺めたところで、誰もが考えそうな結果になるのは当たり前である。
データ自体が意味を持つわけではない
そもそも、データは「文字や数字、記号等で記録された資料」であり「推論等の基になる事実」である(「広辞林」より)。どのような操作を加えてもデータ自体が意味を持つわけではなく、その操作は見る者(分析者)の推論、すなわち思考を助けるためのものである。言い換えると、事実に基づく思考は、データそのものではなく、分析者に委ねられている。
良質なデータを集めれば、さまざまな知見を得られることは当然のように思われるかもしれないが、人によっては気づかないこともあるかもしれないし、気づいたとしてもうまく言語化できない場合もあるだろう(もちろん、意味を見いだすことが難しいデータもある)。
米シカゴ大学の情報科学の研究者であったドン・スワンソン(Don R. Swanson)氏は、公表済みの論文などから新しい関係性を見つけ出し、いくつかの医学上の発見をしている。優れた分析者は「通常は気がつかないことに気がつく」ことで、日常的には考えられないことをデータから「発見」できる典型例である。
映画や絵画の感想は人それぞれ
データに基づく認識を「視点」、そして視点を言語化する過程を「視点の構築」として考えてみよう。構築できる視点は、一つの事実に基づくものであっても、分析者の数だけ異なる。似通った視点であっても、厳密に比較すると微量な差が存在することは珍しくないであろう。また、一人で複数の視点を構築することもできる。一つのデータに複数の興味深い視点が存在することは当然であるし、対立する視点を構築することで、視点の比較や新たな視点の構築も可能となる。
一例として、絵画や映画を見た時の感想を考えてみよう。絵画や映画は画像や動画、すなわちデータとして考えることができる。絵画や映画への感想は「視点」である。「なぜこの構図で描いたのだろう」「あのシーンは印象的だった」といった感想は人それぞれであり、同一作品に対して複数の感想を持つことができる。同時に、一つの作品から異なる解釈を得ることもできるだろう。想像力を使って作品の意図を解釈することもあれば、誰も思いつかないような感想を持つ人もいる。何かを発見するためのデータ分析も同じである。
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