トヨタ自動車の「変革の現場」を追うノンフィクション連載。第37回は元副会長の池渕浩介氏を訪ねた。戦後、極度の人手不足に陥ったトヨタ。しかしその「苦境の6年」の間に大増産を成し遂げた。苦しい現場を支えたのは「働ける喜び」と「地味なカイゼン」だった。
トヨタで副会長を務めた池渕浩介は1960年に入社して、(トヨタ生産方式の体系化に尽力した)大野耐一の下でトヨタ生産方式を学んだ。彼が入った前年、クラウンなど乗用車専門の元町工場が完成した。それでもトヨタ全体の生産台数はまだまだトラックのほうが多く、乗用車の3倍近かった。池渕は本社工場に勤務して、大野が整えた生産ラインで仕事を覚えた。それより数年前の大増産時代のことは「先輩から聞いて」知っている。池渕の話を聞こう。
責任感と魂が支えた復興
「僕らが入った年、トヨタの生産台数はひと月に1万台になった。従業員も1万人。ただ、工場のまわりには自動車は走ってませんでした。僕らは独身寮で暮らしていたけれど、オートバイを持っていた先輩が何人かいたぐらい。あとはオート三輪をよく見た。
僕らが入る前の増産の理由は(創業者の豊田)喜一郎さんと大野さんの力だと思う。あまり知られていないけれど、戦争が終わったばかりの昭和22年(1947年)に、喜一郎さんは『乗用車を作るんだ』と兵隊から帰ってきた大学卒の技術者を200人も採用したんです。戦前のトヨタにはそれほど優秀な技術者は入ってくれませんよ。喜一郎さんの先見の明です。終戦直後だから、人を採ることができた。その後は労働争議で人員整理をするわけですからね。
終戦直後に入ってきた人たちは陸士(陸軍士官学校)・陸大(陸軍大学校)を出たような技術将校で、ほんとに優秀でした。この人たちの力が大きかった。
僕らの先輩は勉強されてました。ものすごい勉強ぶりだった。設備も機械も輸入する金がなかったから、日本にないものを自分で考えだすしかない。あとは責任感ですか。戦争に負けたじゃないですか。だからなんとかせないかんという思いがあったんですよ。なかには特攻に行って、生き残って入った人もいた。工場長やって常務でね。そういう人たちはみんな魂があった。なんとか復興せないかん。
僕らは若造の腰抜け学生ですよ、ノンポリの腰抜け。それでも、先輩たちにしてみれば、こいつらをなんとか鍛えようと思ったんでしょうね。殴られたりといったことは一切なかった。我々を受け入れて、上手に鍛えてやろうという雰囲気だったですね。
あの時代はみんな貧しかった。だから働きたかった。働けること自体が喜びだった。
娯楽といっても、うちに帰ってラジオを聴きながら酒を飲むことしかなかった。ただ、ラジオというのはなかなか発想力が出るんですよ。テレビより発想力が出る。だって、状況をイメージするじゃないですか。テレビが入ってきたのは入社してから数年後かな。それまではうちにないから、町の電気屋がやっていた街頭テレビでシャープ兄弟とか力道山を見ました」
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