トヨタ自動車の「変革の現場」を追うノンフィクション連載。第35回はトヨタが倒産寸前の苦境に立たされた戦後期を振り返る。経営危機に陥り、労働争議に揺れ、人員整理を余儀なくされた後、極度の人手不足にもかかわらず、トヨタはなぜ「大増産」を実現できたのか。
物流カイゼンの現場を見ていて、「ドライバーを増やせない状況、増やそうと思っても簡単にはできない状況は、あの時とまったく同じだ」と直感した。
「あの時」とは戦後の一時期、トヨタが倒産寸前まで追い込まれた時のことだ。
人員整理を行い、新しく作業者を募集できないなかで、創業者で社長の豊田喜一郎から信頼された大野耐一はトヨタ生産方式を練り上げ、現場に定着させた。現在、物流カイゼンチームが直面しているドライバーの不足と似た苦しい状況のなか、では、大野はどうやって生産性を上げていったのか。
労働争議、人員整理、社長辞任
1949年、日本の敗戦から4年後のことだった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)経済顧問として来日したデトロイト銀行の頭取、ジョゼフ・ドッジは経済を安定させるため、デフレ政策を取り、国内消費の抑制を図った。市中にカネが回らなくなり、たちまち不景気になった。
トヨタから車(ほぼトラック)を仕入れようとした販売店は手元に現金がないため、仕入れ契約を取りやめる。その結果、トヨタの本社工場には400台ものトラックが出荷待ちの在庫となってしまったのだった。400台は少ない数に思えるけれど、当時の同社の年間生産台数は1万台でしかない。売り先も見当たらず、かといって生産をやめるわけにはいかない。
多数の在庫を抱え、販売が止まったトヨタは経営危機に陥り、翌1950年、労働争議が起こった。会社再建のため経営側はいくつかのプランを提示し、結局、人員整理をすることになる。当時の全社員8140名のうち、2146名を退職させ、同社はひと息つくことができた。しかし、後に残った社員にとっても「去るも地獄、残るも地獄」といった雰囲気だった。
「現場では次はだれが辞めさせられるのかと疑心暗鬼の状態だった」(大野の愛弟子で生産調査室主査を務めた鈴村喜久男)という。大量の人員整理の責任を取って、豊田喜一郎は社長を辞任せざるを得なくなる。それが同年6月5日のことだった。
わずか20日後、朝鮮戦争が勃発する。デフレ不況にあった日本経済は朝鮮戦争による特需で救われた。
トヨタは戦争が始まった翌月にはアメリカ軍から1000台のトラック(SB型)を受注する。その後も発注は続き、総計4679台のトラックをアメリカ軍に納入することができた。金額にして36億600万円。前年、1949年の売り上げは約20億円だから、アメリカ軍向けだけで2年分の売り上げをまかなったことになる。
さて、話はここからだ。
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