2019年に向けた注目のビジネスキーワードとして急浮上している「MaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)」。自動車メーカーや公共交通を巻き込む「100年に一度」のモビリティ革命は、見方を変えれば「移動デジタルプラットフォーム」を握る世界的な戦い。国家としてMaaSにどう向き合うか、その戦略も求められる。このほど上梓された書籍、『MaaS モビリティ革命の先にある全産業のゲームチェンジ』の著者の一人である、日本総合研究所創発戦略センターの井上岳一シニアマネジャーが解説する。

18年6月、政府が閣議決定した「未来投資戦略2018 『Society5.0』『データ駆動型社会』への変革」では、「次世代モビリティ・システムの構築」がフラッグシップ・プロジェクトの第一に位置付けられている。その中にMaaSも明示的に含まれており、MaaSを含む次世代モビリティ・システムの構築が、Society5.0とデータ駆動型社会を実現するための一丁目一番地という位置付けだ。なぜMaaSが、国家戦略として重視されているのか。
私たちの生活に欠かせなくなっているスマートフォンのOSは、主にAndroidとiOSの2つだ。その上で走るアプリケーションも、「GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)」に象徴される米国のプラットフォーマーたちに強く依存している。結果、私たちの個人データの多くは、彼らに押さえられてしまっている。それがインターネットの世界の実情だ。
その点、中国は“情報鎖国”をし、米国のプラットフォーマーたちの活動を制限したことで、中国のGAFAと呼べる強大なプラットフォーマー「BAT(Baidu、Alibaba、Tencent)」を育てた。あえて鎖国することによって力のある企業を育て、米国以上のネット社会をつくり上げた中国政府の戦略は見事というほかない。
欧州は、米国のプラットフォーマーによる個人データの支配への対抗措置として、EU加盟国のすべてに適用される「GDPR(General Data Protection Regulation:一般データ保護規則)」を策定し、18年5月から施行している。GDPRは、個人データを扱う事業者に厳格な保護措置を求めるものだ。EU域外への個人データの持ち出しを禁止し、規定違反が発見されたときは、前年度の全世界売上高の4%もしくは2000万ユーロ(約25億円、1ユーロ=125円換算)のどちらか高いほうを制裁金として科すなど、米国企業の好きにはさせないという気迫を感じさせられる内容になっている。GDPRの施行により、米国のプラットフォーマーたちの欧州ビジネスは足踏みせざるを得ない。欧州も、中国とは別のやり方で、したたかに米国のプラットフォーマーたちに対抗しているのだ。
日本は産業データで起死回生を狙う
翻って日本はどうか。ITでは米国の軍門に屈した感が強い日本だが、IoTの時代になれば、「T(Things)」の強みを生かして覇権を握れるかもしれない。そう考える人は多い。だが、「I(Internet)」の世界の“制空権”を握られているなかで、「T」の強みだけで本当にやっていけるかどうかは、はなはだ心許ない。そもそも日本には、GAFAのようなビッグデータの覇者がいない。ビッグデータを元手に稼ぐノウハウを持った企業は少なく、解析に必要なAIの分野でも、完全に出遅れている。
このような状況のなかで、日本はどのような戦略を採ろうとしているのか。政府は、GAFAに押さえられてしまっている個人データの世界ではなく、GAFAが十分にアクセスできていない産業データの世界に勝機を見いだそうとしている。そこで、それぞれの企業や系列内に閉じていた産業データを共有・利活用できるようにし、産業分野のプラットフォーマーを育てようという戦略・政策を打ち出している。確かに産業データならば、コマツやファナックのように、プラットフォーマーと呼ぶべきポジションを確立できている企業も存在する。そういう意味でも、産業データに着目した政府の戦略は正しい。
モビリティ(移動)の分野でも、個人のデータはグーグルの経路検索やSNSのチェックイン機能、位置情報連動機能により、かなりトラッキングされている。だが、さすがのグーグルも、実際にユーザーがどの交通手段を使って移動しているかまでは正確にはつかめていないし、クルマの操作や挙動に関するデータも取得できていない。それは、交通事業者なり自動車会社なりが保有する産業データである。個人データはともあれ、産業データはGAFAら巨大プラットフォーマーから守ることができている。
マイカーを使った配車サービスを本格的に解禁していない日本は、米ウーバーテクノロジーズや中国・滴滴出行(ディディチューシン)のようなモビリティサービスのプラットフォーマーの支配からも免れている。モビリティ分野は鎖国状態に等しく、モビリティサービスの実現も、その結果として収集される移動にまつわるデータも、まだほぼ手つかずの状態だ。モビリティ革命の旋風が吹き荒れるなかで、日本市場は移動ビッグデータの「未開のフロンティア」となっている。
この「未開のフロンティア」が誘因となってMaaSのうねりが生まれている。というのも、さまざまな交通サービスを一つのサービスパッケージに統合する役割を担う「MaaSオペレーター」になれば、移動ビッグデータを入り口から押さえることができるからだ。ユーザーに寄り添い、ユーザーの移動のニーズに応えるMaaSオペレーターは、モビリティのプラットフォーマー的存在になれる。コネクテッドカーや自動運転など「100年に一度」の技術革新の波が訪れているモビリティ分野においてプラットフォーマーのポジションを取ることができれば、将来にわたって成長の果実を享受することが期待できる。
日本にとっての理想は、T(Things)の象徴的な存在である自動車産業を擁する強みを生かし、モノづくりとセットになったMaaSのエコシステムを構築することだ。すなわち、モノづくり、サービス、そしてデータの利活用を一気通貫にした、日本版MaaSのエコシステムを構築するのである。自動車産業を基幹産業とする日本がそこで失敗すれば、モノづくりの強みを発揮できなくなる可能性が高い。だからこそ日本版MaaSを実現し、ユーザーとの接点となるMaaSオペレーターのポジションを是が非でも日本企業が担う必要がある。MaaSは国家としての産業政策上、極めて重要なのである。
Society5.0の実現とMaaS
産業政策以外にも、以下の3つの観点からMaaSは国家戦略上、非常に重要だ。
第1に、MaaSは、クルマを運転できない人にもマイカーを持つのと同等以上のモビリティの自由を与える。運転できる人、運転手を雇える人にしか移動の自由を与えてこなかったマイカーよりももっと間口の広い人に、移動の自由を享受できるようにするのがMaaSだ。これにより、従来のマイカー依存社会では移動に困難を伴っていた高齢者や傷病者、障がい者、未成年者が救われる。とりわけ、マイカー依存度の高い都心郊外や地方部で、マイカーがなくとも生活できるようになることは居住福祉の観点からも重要だ。
第2にMaaSは、人間中心の街と社会をつくる機運を生み出す。マイカー依存が進んだ結果、クルマがないと生活できない街が増え、中心市街地は衰退して駐車場だらけとなり、子供の遊び場も少なくなってしまった。クルマや道路が進化しても、渋滞問題、環境問題、事故の問題はなかなか解決されない。
この状況を劇的に変えるには、マイカー利用をぐっと減らすしかない。MaaSは、マイカーと同等以上の利便性を提供することで移動の自由を確保し、クルマ中心(Vehicle Centered)になっていた街や社会を人間中心(People Centered)に生まれ変わらせる機運を醸成するのである。
そして第3に、以上を通じて、MaaSは地域の繁栄と社会課題の解決を促す。移動の自由を享受できる人が増え、街が人間中心になれば、人の外出が促され、往来に人が戻り、地域にはにぎわいが生まれる。その結果、地域の中でお金が回り、地域が潤い、持続可能になる。
内閣府によれば、Society5.0とは、「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」である。地域の繁栄と社会課題の解決を促すMaaSは、国是であるSociety5.0の実現に資するのだ。

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