転機となった海外デビュー

津田 創業当時から「出口」がないままアートを作り続けていたチームラボですが、18年6月にオープンした「チームラボ ボーダレス」は、連日チケット完売で、たくさんの人たちがチームラボのアートを体験しにきています。いまやアート分野におけるチームラボの商業的な成功を疑う人はいないと思いますが、この出口を見つけるまでの最大の転機はどこにあったのでしょうか。

猪子 10年に現代美術家の村上隆さんから「世界で発表しなさい」と言われたことですね。それで翌11年に、作りためてきた作品を村上さんの台北のアートギャラリーに展示したんです。実は個展デビューは日本より海外のほうが先なんですよ。

 台北にはアジアを股にかけた働き方をする国際的な人が多く、そこで評価されたのがすごくうれしかった。さらにその展示が台湾人キュレーターの目にとまり、国際芸術祭のヴェネツィア・ビエンナーレの関連企画展に出展することになりました。

津田 台北での展示をきっかけに、活動が世界が広がっていったんですね。

猪子 そうなんです。翌年の12年には国立台湾美術館で大規模な個展を開催、13年にはシンガポール・ビエンナーレにメインアーティストとして参加、14年にはニューヨークのペースギャラリーから展示を依頼されました。

津田 デビューからわずか3年で世界有数の現代アートギャラリーからお呼びがかかったわけですか。日本国内ではほとんど評価されてなかったのに、海外に持っていったら突然世界的な注目を浴びるようになった。このギャップをどう感じましたか。

猪子 日本では「それまでにないもの」はゲテモノ扱いされますが、海外だと「それまでにないもの」のほうがピックアップされ、評価される。どうもローカルの価値観と、グローバルの価値観は違うんだなと感じました。日本社会では「意味が分からない」と評価されていたのに、グローバルだとデジタルアートの第一人者として扱われるわけですから。

 米国で初めての展示となったペースギャラリーでは、チェルシー地区が埋まるほどの人が集まりました。日本では全く知られていないのに、ここではみんなチームラボを知っている。「なんで来たこともない街で知られているんだろう」と。それで、自分たちのやり方は間違っていなかったんだと確信できましたね。同時に「僕の暗黒の10年間を返せ」とも思いましたけど(笑)。

津田 暗黒……最初から海外で活動していれば、もっと早く世に出られたかもしれないわけですからね。ただ、海外で評価されたことで、日本でもやれるという自信がついたんじゃないですか。

猪子 そうですね。日本でやるにしても「さらに独自路線を貫こう」と決意しました。ただそのためには、日本では自分たちが主体になって出口を作らなきゃいけない。それで、14年の日本科学未来館の企画展「チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」では、主催の1つとして携わりました。これが東京でのデビューだったのですが、約47万人ものお客さんが来てくれて、その後も、16年にはお台場で「DMM.プラネッツ Art by teamLab」を、17年には渋谷ヒカリエで「バイトル presents チームラボジャングルと学ぶ!未来の遊園地」を開催しました。

津田 台北での海外デビューから遅れること4年、ようやく果たした国内デビューを大成功させ、その後も次々と国内での活動を展開していったと。

猪子 科学未来館の企画展が終わってから、自ら出口を作ろうと動き出しました。それが今年6月21日に常設ミュージアムとしてオープンした「チームラボ ボーダレス」です。