さすがに医療の世界で「タブレット」と言えば「錠剤」を指すだろうと思いきや、そうでもないようだ。すでに一部医療機関では、電子問診票の管理や在宅医療・介護のスタッフ連携、外科手術の画像支援ナビゲーションなどで「iPad」が活躍している。昨年、白衣を製造・販売するクラシコ(東京都渋谷区)が、タブレット端末を収納できるポケット付きの白衣を販売したところ、限定100着が2週間ほどで完売し、その後も「大学病院や医学部から一括導入の問い合わせがきている」(同社の大和新社長)という。中高年の医師でもITリテラシーは総じて高い。
この変化にいち早く適応しようとしているのが製薬業界、中でも医師に直接医薬品の情報を提供し営業する最前線のMR(医薬情報担当者)である。MRが“iPad武装”を急ぐ理由は、医師側の導入が進んでいることだけではない。病院訪問と並ぶ営業ルートである医師接待が、今春から実質的に禁止になった。これが営業ツールのデジタル化を後押ししている。
高コストのMRが標的に

製薬会社225社で構成される医療用医薬品製造販売業公正取引協議会(公取協)が打ち出した接待の上限金額は2万円。これは講演会後の慰労が対象だ。一般的な商談・打ち合わせでの飲食は上限5000円である。2次会やゴルフ、観劇といった遊行目的の接待も一律禁止となった。
このタイミングで各社が接待規制に向けて足並みがそろった背景には、業界共通の危機感がある。莫大な利益を稼ぎ出してきた各社の看板医薬品が、2010年以降相次いで特許切れを迎えている。これらは後発薬が発売されると薬価を引き下げられ、利益を圧迫する。さりとてそう簡単に新たな新薬は出てこない。コスト削減の矛先がMRの経費に向かうのも道理だ。
医師向けの専門SNSを運営するメドピア(東京都渋谷区)の石見陽社長は、「医師の医療情報の収集時間の内訳は、インターネットと学会・研究会が各4割程度で、MRは2割を切る。一方、MR1人あたりの年間経費は約2000万円に上り、製薬会社の営業コストの9割以上がMRに割かれている」と説明する。11万人の医師会員を擁するケアネットの大野元泰社長も、「MRが説明にたどりつける医師は1日せいぜい3~5人で1人5分程度」。講演会の準備などMRはさまざまな雑務をこなすものの、医師への説明という“本業”は勤務時間の5%前後に過ぎず、年間経費から算出すると1回5分程度の医師への説明(ディテール)に約1万5000円のコストがかかっていることになる。
ここに着目したのが、エムスリーやケアネットなど医師向けにネットで医薬品情報を提供するeディテール事業者だ。製薬各社で導入が相次ぎ、情報提供回数のざっと4分の1はネット経由と言われる。エムスリーの「MR君」はその代表格で、情報提供1回あたりのコストは約200円。今春から国内最大手の武田薬品工業が導入し、MR約2500人分の活動に相当する年間165万回以上の情報提供を見込んでいる。
MRの存在基盤を揺るがすような変化ではあるが、ケアネットの大野社長は「決してMR不要論ではない」という。「MRと1回も接触なく新薬の採用を決める医師はまずいない。一般的な消費で例えればクルマや住宅の購入に近い」(大野社長)。1回5分の医師との面会を効率的で充実した内容にするために併用するものという位置づけだ。

ケアネットのバーチャルMRサービス「MRPlus」では、医師の知りたいテーマや理解度に合った解説動画を視聴してもらうようにMRが促し、視聴した医師が内容の分かりやすさについて選択回答式でフィードバックしたり、MRに質問や訪問を求めたりできる構成になっている。

MRはここで受けた質問への回答を用意するとともに、そこから浮かび上がるであろう議論の流れをあらかじめ想定し、必要なデータやプレゼン書類をiPadに詰めて医師との面会に臨む。ここで打てば響く回答ができるMRは医師から信頼され、セールス実績も上がる。せっかくのiPadも、Webに載っているレベルの情報を読み上げるに留まるMRでは宝の持ち腐れだ。各社とも今後主力となる医薬品は、比較的説明が容易だった生活習慣病の薬剤から、自己免疫疾患やがん治療薬など作用が複雑で症例ベースでの高度な知識と議論が求められる薬剤に重心が移っている。ますますMR本来の力量が問われる時代を迎えていると言えるだろう。
医師のクチコミが処方を左右
iPadと並んでソーシャルネットワークも医師の間に着々と浸透しつつある。FacebookやTwitterではなく、医師限定の専門SNSだ。
メドピアの「MedPeer」には4万5000人の医師が登録。「薬剤評価掲示板」では1700の薬剤に18万件のクチコミが投稿されている。MR君が契約企業の薬剤を取り扱う「ぐるなび型」とすると、契約に関係なく薬剤を評価するMedPeerは「食べログ型」と言える。
この掲示板では、医師が「効果」「副作用の頻度・重篤度」「飲みやすさ・処方しやすさ」「情報の充足度」といった項目についてそれぞれ5段階で評価の星をつけることができる。医師の臨床現場での処方経験が集合知となって表れるこの評価が、処方方針に与える影響は大きくなっている。
メドピアは昨秋から、各薬剤の評価ページに広告枠を設置し、製薬会社向けにプロモーション支援を開始した。例えば副作用の面を不安視する声が多い場合は、自社サイト上で比較的安全に処方できるケースや回避した方がよいケースなどを明示し、そこに誘導する広告見出しを立てる。好意的なクチコミだけを集めて載せるような宣伝はプロモーションコードに違反する恐れがあるため、説明不足を補う使い方が適切だろう。すでにファイザーやサノフィ・アベンティスなど10社以上が利用している。MRにとっても、担当する薬剤に対する医師の評価は、営業する上で大いに参考になる情報だ。
医師向けSNSを巡っては、ボストンネットワーク(東京都港区)がMRとの面会予約機能を持つ実名SNSを立ち上げ、「現在100人の医師会員を早期に1000人規模を目指す」(太原有理社長)など後発サービスも登場している。各種ネットサービスと手元のiPadを武器に自己研鑽に余念のないMRと、そうした有能なMRを多数抱える企業だけが勝ち残る。そんな厳しい時代を製薬業界は迎えている。