東京急行電鉄は、携帯電話利用者への情報提供によって東京・二子玉川の街の回遊を促進するサービス「ニコトコ」を、2011年11月30日から2012年3月末までの期間限定で展開中だ。
鉄道会社が自社路線の沿線エリアの活性化を図るのは、ごく普通の取り組みだ。しかも、二子玉川という比較的小規模な街を対象にして、従来型の携帯電話もサービスの対象に据え、QRコードという“枯れた技術”を採用している。実は、すべてにわたってあまり先進性が感じられない点にこそ、東急電鉄の戦略性がある。
「過去の失敗から、当社にとって大切なのは先進的なサービスを使った施策の旗を振ることより、沿線の街が魅力的になるようなツールを提供することだということが次第に分かってきた」。そう、東急電鉄事業戦略室ICT戦略部の峰崎大輔氏は指摘する。
氏の言う失敗をまずご紹介することで、ニコトコの革新性を浮かび上がらせていこう。
インターネットという脅威
前身となる目黒蒲田電鉄が1922年に創業して以来、商業施設や住宅地などの沿線開発を通じて事業を拡大してきた東急電鉄。今年で創業90周年を迎える同社にとって、インターネットが生活へ浸透することは、実のところ大きな脅威となっている。

家にいながら買い物ができ、映画が見られ、仕事もできれば、おのずと人の移動は減っていき、鉄道の運賃収入も減少する。ネット通販でリアル店舗の売り上げが減少すれば、商業施設のテナント料の減収につながる。
ネットでの情報提供を契機にリアル店舗での消費を促進すると注目されるO2O(オンライン to オフライン)マーケティングにも“落とし穴”がある。前出の峰崎氏は言う。
「目的買いが進んで寄り道や衝動買いをしなくなる。確かに合理的でいいが、セレンディピティとも言うべき偶然の出会いがなくなる」
単独の店舗だけでなく、商業施設や街全体の賑わいを高め、そのエリアの価値を向上させたい同社にとって、O2Oは必ずしもプラスに働くとは限らないというわけだ。そんなIT、ネットの普及を逆手に取って、街全体の活性化につなげることに、東急電鉄は10年前から取り組んできた。
2001年からは、電車の乗降時に通る自動改札機で利用者の位置を把握し、利用者の定期券データからプロフィールを把握し、さらに購買履歴などから最適な情報を提供するサービス「グーパス」を展開した。
利用激減した渋谷のAR実験
2009年度と2010年度の冬には経済産業省の支援を受けて、iPhoneアプリ「pin@clip(ピナクリ)」を使い、東京・渋谷の街の活性化をする実証実験を実施した。2009年度はその内蔵カメラを通じて映るビルや道路の映像に、店舗などの情報をテキストや画像で重ね合わせて表示するAR(拡張現実)技術を使い、渋谷駅周辺の情報を提供した。
渋谷駅ハチ公口から約200m離れたヤマダ電機の「LABI渋谷」方向に向けてカメラを掲げれば、駅にいながら店舗の情報を入手できるイメージだ。180の店舗・施設が参加した。
しかし、iPhoneのカメラを周囲に向けて情報を探すというスタイルは、渋谷の街ではあまりに違和感があった。
そこで翌年度には、QRコードのようなデザインの「ARマーカ」を420の店舗や駅など929カ所に貼り出し、それをiPhoneのカメラを通じて読み込むことで、店舗案内や特典情報を画面上で入手できる機能を加えた。位置情報を使ったソーシャルゲームも展開した。
最先端のAR技術を使った取り組みは、両年ともマスメディアで多数取り上げられ注目を集めた。技術の有効性を検証するという意味でも十分な成果を得られた。しかし、街を活性化するものにはなり得なかったようだ。
2009年度の実験ではアプリのダウンロード数は1万664件あったが、翌年には5427件にほぼ半減。渋谷エリア内でのアプリ起動数は、7896件から427件へ大きく減少してしまった。
東急電鉄は2010年度の実験の報告書の中で、利用者の減少の原因を「様々なITサービスが登場し、殊更本モデルサービスが目立たなくなってしまったことや、広報・告知量の縮小など複合的理由が考えられる」と分析している。

利用者が少なく集客効果がないと当然、情報提供する店舗の評価も厳しくなる。2010年度の実験へ参加した店舗へのアンケートでは、サービスの先進性への評価が高く、無償であれば利用し続けたいという回答が75.0%を占めた。しかし、有償でも続けたいという店舗は4.2%しかなかった。AR技術の先進性が評価されても、利用者の利便性向上、店舗集客につながらなければ、実験サービスの事業化は難しい。
そんな渋谷での実証実験への反省を生かして設計されたのが、2011年度の新たな取り組み、「ニコトコ」である。
都市生活創造本部事業統括部企画開発部企画担当の福島啓吾氏は、渋谷の実験に対して「大きく2つの点を変えた」と明かす。
1点目がサービス提供の舞台を二子玉川に移したことだ。渋谷の街は広く、多様な店舗が多数あり、街全体の取り組みとするのは難しかった。
二子玉川で同社は、2010年に集合住宅と商業棟からなる「二子玉川ライズタワー&レジデンス」を、2011年3月に商業施設「二子玉川ライズ・ショッピングセンター」をオープンさせた。オープンからしばらくたって、来訪者がいつも同じ店に足を運ぶようになってしまい、新たな発見をしてもらうことで回遊性を高めることが課題になっていた。二子玉川ライズを核に、玉川高島屋ショッピングセンターや近隣の商店街などの協力を得て、コンパクトなエリアで回遊性を高めることを目指す。
従来型の携帯電話利用者も取り込む
2点目は、「iPhoneなど(当時の)最先端の機能を追求するよりは、技術的には枯れているテクニックでも使い勝手がよく、リーチを広く取れるもので展開」(福島氏)することだ。
AR技術の利用はやめ、従来型の携帯電話でも活用できるQRコードを200以上の店舗に貼り出し、それを読み込んでもらうことでクーポンなどの情報提供やポイント付与をする。また、特定の店舗のQRコードを読み込むと集められるスタンプラリーも実施する。これなら携帯電話の利用者ほぼ全員が参加できる。
利用者に向けてはシンプルなインターフェースを採用しつつ、システムの裏側では、利用者のプロフィールと利用店舗、階数も含む場所といった様々な情報を掛け合わせて、「いまだけ・ここだけ・あなただけ」のクーポンや店舗情報を提供して、街の中での回遊を促す。

「ポイント、クーポン、スタンプラリーによって、街を訪れる回数、滞在時間、利用する店舗数の向上を狙う」(峰崎氏)のが目的だ。
利用者は開始から2週間で1000人を超えた。二子玉川の街中でのチラシ配布やデジタルサイネージでの告知、携帯電話向けサイト「東急モバイル」内での告知などで利用者を拡大していく。今後、スマートフォン向けアプリも提供して使い勝手を高める計画だ。二子玉川駅の1日平均乗降人員は10万人を超え(2010年度)、その10%近くに利用されれば2009年度の渋谷での実験規模を超える。
利用者獲得に加えて、サービスの成否を決めるもう1つの鍵が、参加店舗による情報提供だ。参加店舗には、パソコンや携帯電話でクーポンをリアルタイムに発行できるシステムを東急電鉄が提供している。
ただ、商業施設を運営する東急電鉄のO2Oの成功指標は、大幅割引のクーポンを店舗に発行してもらい、一時的に大量の集客を実現することではない。「入居しているテナントに感謝されるというだけではなく、施設全体・地域全体を盛り上げ、沿線人口や来街者が増えること」(峰崎氏)という長期的な視点に基づくものだ。
そこで、商業施設の店長会など通常の情報伝達ルートを通じてニコトコの取り組みを案内し、商店街の店舗へは実際に足を運んで取り組みを説明し、理解を深めてもらっている。この点は従来の実験以上に力を入れている。
渋谷の街を舞台にAR技術を活用した最先端のサービス「ピナクリ」から、QRコードを活用して二子玉川の商業施設を中核にしたサービス「ニコトコ」へ--。O2Oマーケティングのサービスとしては規模が縮小し、退化したようにも見えるが、これまでの失敗を生かした原点回帰が、東急電鉄流のO2Oマーケティングを成功に導くだろうか。
記事掲載当初、二子玉川ライズタワー&レジデンスのオープン時期などが誤っておりました。本文は修正済みです。[2012/1/10 12:45]