私が講演をする際に、よく事例として引用する企業にクックパッドがある。自宅で食事をつくる、いわゆる「内食」に関する顧客時間を把握し、それをビジネスモデルにまで昇華している数少ない会社だ。
そのクックパッドはWebサイトに、次のような企業理念を掲げている。「毎日の料理を楽しみにすることで、心からの笑顔を増やす」ため、「インターネット上で料理レシピの投稿・検索等が可能な『クックパッド』」を中心に事業を展開。(略)生活者の目線で利便性や有益性を追求する姿勢である『ユーザーファースト』を最も重要な価値観と位置付け、徹底してユーザーの方と向き合いながらサービスを提供していきたい」。

素晴らしい理念であり、私も食に関わる企業に勤めている人間として大いに共感する。食に関する人間の欲求は、突きつめて考えると大変面白く、奥が深いからだ。
人間は生きていれば必ずお腹が空く。基本1日3食だ。1億2千万人いる日本人が、1日に3億6000万回の食事を摂る計算になる。これほど食に対する欲求の発生頻度は多いのに、その「検討」の時間は極めて短い。
食に特有の難しさの原因
例えば、会社の仲間と昼食に出かけるシーンを思い浮かべてほしい。事前に何を食べるのかを検討、つまり考えて決めている人など、ほとんどいないのではないか。そして全員で同じ店、例えばそば店に行ったとしても、上司はそばを食べ、部下は親子丼を食べるかもしれない。そして、この選択に掛ける時間など、ほんの一瞬だろう。
このように検討時間は短く、第三者がその欲求(=何を食べるか)を捉える手掛かりをつかむことは難しい。こうした特徴があるために、食をビジネスにすることには、特別な難しさがある。
もちろん、食においては「おいしさ」が重要な価値となる。この情緒的、感情的な価値で他店と差別化することは可能である。しかし、やっかいなことに、おいしいからといって、毎日同じ店に行く人は、まずいない。
そんな難しさを持つ食に対する欲求に、毎日のように対峙しているのが主婦だ。オイシックスのアンケート調査でも、「毎日の献立を考えるのが苦痛だ」と答える人はとても多い。そのストレスと不満解消に焦点を当てたのが、当社の「KitOisix」という商品。わずか20分で主菜と副菜が仕上がることから、売れ行きは大変好調だ。
クックパッドもまた、主婦などが煩わしいとすら感じる食の検討フェーズをビジネスの“主戦場”にしている。朝、昼、晩と1日に3回も生じる「献立を考える」というニーズに対して、レシピというソリューションを提供することで、煩わしさの軽減・解消につなげている。しかも会員は、レシピ情報を原則無料で閲覧できる。そのレシピを参考にして食事をつくれる。煩わしい検討の時間が減って、すぐに準備に入れるのだから、ユーザーが大喜びするのも当然だろう。
ではなぜクックパッドはレシピ情報を無料で提供しながらも、高収益を上げられるのか。もちろん、そこには広告配信モデルがある。食に対するニーズは朝、昼、晩にという限られた時間に、確実に発生する。そのニーズに基づいて生まれるレシピの閲覧履歴データは、調味料メーカーなど食にかかわる企業にとって宝の山であり、広告配信の精度を高めることにも大いに役立つ。
最近ではメニュー開発を手掛ける“エバンジェリスト”に、レシピ本の出版や独立(プロ化)を促すことなどで、新しいクックパッド経済圏をつくることにも意欲的だ。やはり顧客時間で最も重要な検討フェーズを可視化して、そのフェーズにある消費者とのコミュニケーションに注力することは、ビジネスを成功させる基本的かつ重要な要素だと言えよう。このフェーズを捉えられた企業が激しい競争を勝ち抜いていくのだ。
クックパッドが唯一把握できない顧客時間
そんなクックパッドにも、完全には見えていない顧客時間がある。それは「購入」のフェーズだ。同社もEC(電子商取引)事業を展開しているが、全ての食材をクックパッドで購入する人はごくわずかだろう。オイシックスのように定期宅配便という手段で、コンスタントに消費者の“買い物カゴ”の中身を把握できる環境にはない。

しかし同社の挑戦はとまることはない。食材などの購入データを得ることはできなくても、会員をクックパッドから店舗に送客するO2O(オンライン to オフライン)戦略として2013年2月、実店舗の特売情報をリアルタイム配信するサービスを本格的にスタートさせた。店舗は売りたい商品の情報をこまめに発信でき、食材とレシピをひも付けて提案することも可能だ。クックパッドが有するレシピのPOP化も、店舗向けサービスの1つとして実施している。
このようなサービスはまさに、「オンラインコンテンツのオフライン化」であり、「コンテンツO2O」と呼ぶこともできよう。そして、消費者がオムニチャネル化している現在、どこのレシピかわからないPOPよりも、普段目にしているクックパッドが提供するレシピが消費者の購入のフェーズを後押しすることは想像に難くない。このようなサービスを活用する店舗では売上高が伸びているという実績もあるという。
かつては、主婦などが生鮮食品や日配品を購入する買物行動の動機付けの手段として、新聞の折り込みチラシは一定程度の店舗送客効果があった。だが、効果の可視化が難しい上、都市部を中心に新聞購読者が減少しており、チラシの効果も年々、低下している。
そうした中、献立を検討している主婦などの検索ワード、例えば「たまねぎ、簡単」から近隣店舗を紹介し、店舗送客を実現する仕組みをクックパッドが導入すれば、購入フェーズを可視化できる。店舗からメディアとして信頼を勝ち得ることもできるだろう。クックパッドはレシピ・プラットフォームによって、食に対する顧客時間を追い続けている。顧客時間の完全掌握に挑戦している企業が、この日本にも存在するのだ。
食は、データドリブンが有効な市場
もちろん、食の領域は競合が多くレッドオーシャンに見えるかもしれない。一方でデータマート化を進めやすい領域でもあり、デジタル化による新たなビジネスを生み出すチャンスは、まだまだある。なぜなら食べ物は、その材料となる食材と、設計図と言えるレシピとを、多くの人が簡単に理解できるからだ。例えば材料としてニンジンが必要なら「ニンジン2本」などと書くだけで良い。ニンジンについて「赤色をした野菜で、大きさは20センチほどで…」などとわざわざ説明しなくても、何を材料として買ってくれば良いのか、誰でもわかる。設計図であるレシピも、決して難解なものではなく、書いてある通りに調理をすることが可能だ。
だが他の分野、例えば工業製品なら、こうはいかない。材料1つとっても、“素人”には材料の名称を見ただけでは、それがどんなものかわからないものも少なくない。また、材料それぞれについて詳細なスペックを書く必要もある。設計図も、レシピとは違って、誰もが一目で理解できるものは多くはないだろう。
そうした分野と比べれば、食という分野は、まだデータ化されていないもの(例えば、誰かが思いついた新しいレシピ)を文字にして、データ化するのも容易だし、そのデータを多くの人がたやすく利用できる。つまり食は、意外にもデータと相性の良い分野なのだ。だからこそクックパッドのように、データドリブンな新市場を興すプレーヤーが出てくるのだ。
このように、さまざまなビジネスをIT、データ分析、顧客時間で見ていくことで、新たな競争優位が生まれる。私もエンゲージメントコマースの考え方を、さまざまな業種、業態に適応し、今後も考察していくことに挑戦していくつもりだ。