人間の行動から傾向を発見し深層心理に迫り、ビジネスに生かす手法を探る本特集。前編は、本テーマについて事例から深く掘り下げた日立製作所中央研究所の矢野和男主管研究長の著書『データの見えざる手』から、分析を進める基本的な考え方を紹介する。

 データから人間行動の法則を解き明かすという壮大なテーマを掲げた1冊の本が今年の7月に出版された。日立製作所中央研究所の矢野和男主管研究長が書いた『データの見えざる手』だ。出版直後から話題を呼び、工学分野の研究者の著書としては異例ともいえる売れ行きとなっている。

 『データの見えざる手』は人間行動の法則性を論じた本である。同時に、矢野氏自身がビッグデータの活用に思い悩み、苦闘の末にたどりついた成果を紹介したものだ。

 矢野氏の主張は明快。人間の行動には客観的な法則があり、その法則はセンサーから得た膨大なデータをコンピュータで分析することによって発見できる。しかもその発見は職場の活力を高め、ビジネスで成果を上げるために大いに活用できる。

 「データの見えざる手」という言葉はもちろんアダム・スミスの「神の見えざる手」の向こうを張ったもので、新しい科学の始まりを思わせる知的な面白さに満ちている。それだけではない。顧客や従業員の行動に関係するデータの活用に取り組んでいる担当者にとって示唆に富む。

 例えば、職場の活力を高めて、業績を高める方法をセンサーの活用やそのデータの分析から導き出すことができるだろうか。矢野氏の答えはイエスである。

 2012年にもしもしホットラインと日立はコールセンターのオペレータに名札型のセンサーを装着してもらい、職場の生産性を左右する要因を調べる共同プロジェクトに取り組んだ。データ分析の結果は意外なものだった。休憩所での会話の活発度が受注率と強く相関していた。この相関の因果の向きを明らかにするため、休憩時間の会話が活発になるように同世代4人が同時に休憩時間をとる施策を実施。その結果、受注率が13%向上した。

専門家VSコンピュータの結末

 もう1つ、人間行動のデータ分析の近未来の姿を思わせる興味深い実話が紹介されている。それには「コンピュータVS人間、売上向上で対決!」という見出しが付いている。次のような実験だ。

 あるホームセンターの店舗で買い物客、従業員、店長らの協力を得て名札型のセンサーをつけてもらい、店舗での行動を10日間かけて詳細に計測。センサーデータとPOS(販売時点情報管理)データなどを組み合わせて購買行動を分析し、売り上げを左右する要因を探した。

 面白いのはここからだ。流通業界の2人の専門家が呼ばれ、センサーデータによる購買行動の分析とは別に、店長や会社幹部へのヒアリングや長年の経験に基づいて、店内広告や棚の配置替えなどの売り上げ向上策を練った。もう一方の対策は業界の知識や経験を一切使わず、得られたデータのみを使用してコンピュータで導き出した。日立が独自に開発した人工知能ソフトを適用したものだ。

店内の特別な“場所”を発見

 最初の計測から1カ月後に、専門家の対策とコンピュータで導き出した対策の両方が実際の店舗でテストされた。結果はコンピュータの勝ちだった。専門家の対策には効果が認められなかった。コンピュータが導き出した対策をとると、顧客ごとの売上単価が15%向上した。その対策はというと、「店内の特定のある場所に従業員が立つこと」だった。こんな対策は事前には誰も思いつかない。

 どうやらその店舗には売り上げに影響する特別な場所があったのだ。そこに従業員がいると店内の顧客の流れが変わり、高額な商品の棚での滞在時間が増える。さらに従業員や顧客の身体運動の活発度も高まる。理由ははっきり分からないが、これらの変化はデータで確認している。

 こうした経験から矢野氏は「ビッグデータで儲けるための3原則」を掲げた。データから人間の行動を読み解こうとする人たちにとって、プロジェクトの方向性やフェーズを確認するガイドとして役立ちそうだ。

 第1の原則についてだけ、説明を追加しておきたい。アウトカムとして企業の現場が利益や売り上げを選ぶのが難しいケースがある。手に届く範囲にある指標から、どれをアウトカムに選ぶのかがプロジェクトの命運を左右するし、人間の知恵の出しどころだ。

 ここからは人間行動をデータで見抜くことに取り組み、成果を上げた企業の事例について、顧客軸、従業員軸それぞれで見ていく。

仮説を作るコンピュータを相棒に
日立製作所中央研究所 矢野和男 主管研究長

 ビッグデータという言葉のなかった頃から、私たちは今でいうビッグデータの活用に取り組み、いろいろな失敗や苦労を重ねてきた。「ビッグデータで儲けるための3原則」はそうした経験から来ている。

 これまで仮説を作るのは人間だといわれて、私たちも最初はそれに従った。ところがビッグデータの場合はこれではたいした結果が出なかったのだ。発想を変えて、コンピュータ自身に仮説を作らせることにした。そのために人工知能などの技術が必要なら、それも自分たちで作ろうということだ。

 この覚悟を決めてから、ビッグデータへの取り組みがよい方向に動き出した。コンピュータで仮説を作るということが3つの原則のうちの3番目だ。

何をよくしたいのか(アウトカム)を決めるのは人間

 そうはいってもコンピュータには問題を作ることはできない。何をよくしたいのか(アウトカム)を決めるのは人間だ。アウトカムを決めることから出発しないとダメだ。このことを踏まえなかったために私たちも痛い失敗をした。これが3つの原則のうちの1番目の意味だ。

 どんなデータが必要で、どんなデータが利用可能なのかということもコンピュータには分からない。データを集めるときに大切なのは、仮説に基づいてデータを集めるのではなく、アウトカムに関係するものをできるだけ手広く持ってくることだ。これが3つの原則のうちの2番目だ。物事を決定するのは人間なので、人のデータをできるだけ多く取ったほうがいい。

 ハピネスやコミュニケーションがうまくいっているかどうかといったことまでセンサーでとらえることができる。それらはデータの中に影として映りこんでいる。こうしたデータや人工知能の技術は、個人の能力をフルに引き出す職場作りに役立つ。コンピュータを人間にとって一緒に山登りをするシェルパのようなものにすることをどんどん進めていくつもりだ。(談)

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